大判例

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東京地方裁判所 昭和50年(ワ)6942号 判決

原告

小池早苗

原告

池田洋子

右原告ら訴訟代理人

山本隆夫

里村七生

錦織正二

被告

山本潤一

被告

宇都宮隆一

右被告ら訴訟代理人

高田利広

小海正勝

主文

一  原告らの請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実《省略》

理由

第一医療事故の発生

一請求原因1(一)の事実は当事者間に争いがない。

二そこで、まず、直子が足立共済病院に入院した後死亡するまでの経緯についてみるに

1  請求原因1(二)(1)の事実のうち、直子が昭和四九年七月一七日に原告早苗とともに足立共済病院に来院し、被告山本の診断を受けて同日同病院に入院したこと、同1(二)(2)及び(3)の事実、同1(三)(1)の事実のうち、直子が同病院に入院した後一時は症状が好転したが、頭痛等は継続し、七月二八日ころから更に症状が悪化したこと、同1(三)(2)の事実のうち、当時、被告山本が直子を毎日診察したこと、同1(四)(1)、(2)及び同1(五)(1)の事実、同1(五)(2)の事実のうち、直子が八月二八日に退院したこと及び被告山本が八月二日から二〇日間程渡米したこと、同1(五)(3)の事実のうち、被告らが退院の際直子に対し格別の注意を与えなかつたことを除く事実、同1(六)(1)の事実のうち、直子が同病院を退院した後原告ら主張の日時に四回通院したこと、同1(六)(2)及び(5)の事実はいずれも当事者間に争いがない。

2  右争いのない事実に、〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められる。

(一) 直子は訴外東鋼業株式会社に保健婦として勤務していたが、昭和四九年六月中旬ないし下旬ころから頭痛、吐き気、嘔吐、不眠等の症状を自覚し、しだいにそれらが昂じてきたため、同年七月一七日原告洋子等に付き添われて足立共済病院を訪れ、被告山本の診察を受けた。

右初診時における直子の主訴は頭痛、嘔心、項部痛、食欲不振で、その容貌は苦悶状を呈し、過剰な表情をもつてその苦痛を訴え、一方四肢の運動には力がなく、立つことも殆んどできず中腰になり、さかんに、同年七月六日乗用車に乗つていた際急ブレーキをかけられて頸部を打つて以来症状が生じたものであることを訴えていた。そこで被告山本は、血圧の測定、腱反射の検査等をなしたうえ、さしあたつて「低髄圧症、低血圧症、頭部外傷」と診断し、なお神経症的要素(神経症、ノイローゼなど)が症状に加味されている可能性もあるとして、取り敢えず同女を入院させ、症状の経過を観察することとした。

(二) 入院後被告山本が補液(フイジオゾール、ビスコン、ペルサンチン)を施したところ、直子の症状はその後一週間程にわたつてやや回復し、吐き気、嘔吐等が納まり頭痛も和らいだ。また、七月二三日には脳波を測定したが、特に異常は認められなかつた。ところが七月二三日に至り再び強い嘔吐、頭痛が認められ、同月二六日には歩行時のふらつき、二七日には時折頭がボーツとする、病院の階段を理由なくふらつく、更に、二八日には尿失禁をする、時折訳の分らぬことを言う、自分で話をしていて何を言つたか解らなくなるといつた精神症状が現れるに至つた。そのため直子の病因を探るため主に同女の症状経過を観察していた被告山本は、同女の頭蓋内において何らかの器質的変化が存在する可能性が強いものと考えるに至り、七月三〇日午後一時ころ、被告宇都宮に依頼して同女に対し脳血管撮影を実施したところ、同女の右頭頂、側頭部付近に何らかのスペースオキユパイド(場所占拠性)のもの、すなわち頭蓋内の器質的な病変を示す何物かが脳の表面にあつて右側大脳半球を圧迫していることが判明した。

(三) そこで、被告山本は、右撮影の結果によると、右のスペースオキユパイドのものが血管を有するものでないこと、直子が先に外傷を受けた旨訴えていたこと並びに直子の症状は前記のような精神症状が主体で腱反射異常等の神経症状が現われていないこと等から考えて、直子の病変は慢性硬膜下血腫によるものであり、直ちに右血腫を除去するための手術が必要であると診断し、同日午後四時二〇分ころから、被告宇都宮とともに局所麻酔を用い、直子の頭蓋骨の右側側頭部から頭頂部にかけて三個の穿孔を開け、そこから血腫を洗い流すための手術に取りかかり、右穿孔を行つたところ、直子の脳表面に存在していたものは血腫ではなく、腫瘍組織であることが明らかとなつた。そのため、被告らはその肉眼による所見等から、右腫瘍は髄膜腫(メニンジオーマ)であろうと一応診断したうえ、一旦手術を中止した。そして被告らは右腫瘍が脳表面を覆つて発育し、腫瘍と脳皮質との境界が鮮明である状態からみて摘出が容易であり、また、右摘出手術を後日に延期することはかえつて病状の進行等による危険を増大させるのみであると判断し、引き続き右腫瘍の摘出手術を行う旨を決めた。そこで被告らは直子に対し今度は全身麻酔を施したうえ、午後六時ころから開頭手術に取り掛かり、当日午後八時一〇分までの間直子の右側側頭部から右頭頂部にかけて頭蓋骨を横に約一〇センチメートル、縦に約七センチメートル四方にわたつて除去し、約八センチメートル×約七センチメートル、厚さ約一ないし二センチメートルの大きさで脳皮質を覆うように増殖していた右腫瘍約一〇〇グラムを肉眼的にそのほぼ全部摘出するに至つた。なお、その際腫瘍周辺の正常な脳組織は格別切除、損傷されることはなかつた。

(四) 直子の右手術後の経過は極めて良好であり、手術翌日には意識が清明となり、二日目には食事も全粥の摂取が可能となり、三日目からは常食を取るようになつた。また、手術前に顕著に認められた精神症状及び頭痛、吐き気、嘔吐等の諸症状もすべて消失するに至つた。そのため、同女は手術の約一月後である八月二八日には早くも退院することができ、以後、再び東鋼業株式会社に保健婦として勤務することが可能となつた。なお、右退院に際しては直子の頭骨は前記手術により一部除去されたままの状態であつた。

(五) ところで、被告らは、八月二日、本件手術により摘出した腫瘍組織のうち二個の組織標本について慈恵医大病理学教室に病理検査を依頼したところ、八月一〇日ころその検査結果が判明し、それによると右腫瘍は一般に良性のものとされているメニンジオーマではなく、悪性度(再発の可能性)のより高い神経膠腫(グリオーマ)の一種である星細胞腫(アストロサイトーマ)であることが明らかとなつた(なお、右検査結果は「病理診断報告書」の形で同大学から被告宇都宮に届けられ、一方被告山本は当時渡米中であつたため八月下旬ころ帰国して右報告書を閲読した。)。そして、被告山本らは右報告書中における病理診断の所見から本件腫瘍は米国の病理学者であるケルノーハンの分類(悪性度が増す毎に応じて一度から四度まで分類したもの、以下アストロサイトーマに度数を付すときは右分類による。)による一度ないし二度のものに該当し、悪性度は比較的低く再発するとしてもそれまでには少なくとも三年を要するものと判断した(被告らが直子の腫瘍をアストロサイトーマ一度ないし二度と判断したことは当事者間に争いがない。)。しかし、被告山本は、直子の退院時までは直子及び原告ら家族の者に対し腫瘍が良性のものであつたとのみ告げ、また退院後も後記(六)の証拠保全手続がなされた時までは、直子らに対し右腫瘍がアストロサイトーマであつたことは告げず、一〇月一五日ころ直子から電話により腫瘍の種類について質問を受けた際にも、右腫瘍はメニンジオーマであり、再発することがあるとしても一〇ないし二〇年先のことである旨を述べるに留めていた。

(六) 直子は前記退院後も同年九月四日、一一日、二五日、一〇月一一日の四回にわたり足立共済病院に通院したが、特に異常を訴えることはなく、他覚的な所見においても格別異なつたところは認められなかつた。

しかし、直子は、右通院の際同病院から与えられた薬を服用すると乳房が張るなどの症状が現われるよう感じたこと及び頭蓋骨の一部が除去されたままとされていることについての不満等から、一〇月一一日を最後に足立共済病院への通院を止め、一〇月二五日に東京医科歯科大病院脳神経外科に転院し、以後一〇月二八日、一一月六日、一二月九日、一四日と、四回にわたり同病院に通院した。その際直子は病院の医師に対し、同女が足立共済病院において脳腫瘍の摘出手術を受けたこと、その際右腫瘍はメニンジオーマである旨を告げられたこと等を申し述べ、除去された頭蓋骨部分に対する人工骨の形成手術を希望した。そこで同病院の大畑医師は直子に対し足立共済病院において手術をした際における腫瘍組織の病理検査報告書を持参するよう求めるとともに、同女の症状を観察し、再発の可能性等について改めて検査を施したうえで人工骨形成手術を行う旨の方針を立てた。

更に、直子及び原告らは、同年一一月一〇日東京地方裁判所に対し、被告山本を相手として、同被告が直子の頭蓋骨を除去したままの状態で退院させたこと等を理由に、同病院の診療録の記載及び直子の頭蓋骨の状態等について証拠保全の申立をなし、同年一二月一〇日そのうち直子の診療録等について証拠調がなされたが、その際原告洋子は被告山本から、直子の腫瘍が実はアストロサイトーマであつた旨を告げられ、また、その後右腫瘍についての前記病理診断報告書の写を入手したため、同月一四日同原告が右報告書を訴外大畑医師に示すとともに、同人に対し直子の腫瘍がアストロサイトーマであつた旨を告げたところ、訴外大畑は、右報告中の記載及び同大学病院での直子の初診以来の経過並びに臨床所見等から、右腫瘍がケルノーハンの分類による三度のものに該当すると診断し、更に、その際原告洋子から、その約一月位前から直子に頭痛が生じており、最近は意識が低下ぎみ(眠り勝ち)である旨を聞くに及び、右アストロサイトーマの再発が考えられるところから、原告洋子に対し直子を武蔵野日赤病院に入院させたうえ検査を受けさせるよう指示した。

(七) そこで、直子は同月一六日武蔵野日赤病院に赴き、同月二〇日から入院したが、右のとおり再発したアストロサイトーマが悪化したため、同月二四日午後五時三七分に死亡するに至つた。なお死亡当時のアストロサイトーマは四度のものであつた。

〈証拠判断略〉

三一方、脳腫瘍及びアストロサイトーマについては、いずれも〈証拠〉及び鑑定の結果を総合すると次の事実が認められる。

1  脳腫瘍とは頭蓋内の脳実質に生じる腫瘍をいうが、その生じる脳組織及び腫瘍を構成する細胞によつて病理学的に三〇種類程に分類されている。そのうち脳神経細胞とグリアに生じるものがグリオーマであり、髄膜に生じるものがメニンジオーマである。グリオーマは腫瘍細胞の組織等により更に幾種類かに分類され、アストロサイトーマはそのうちの一つである。

ところで、アストロサイトーマも病理学的には分化度の極めて高いもの(臨床的に良性)から極めて未分化のもの(臨床的に悪性)までの腫瘍の型を総称した組織学的診断名であるため、その病理的、臨床的悪性度に応じてなお分類され、例えば前記のとおり米国のケルノーハンは悪性度が増すのに応じて一度ないし四度に分類したが、今日においては次の三種類に分けるのが一般的とされている。

(一) アストロサイトーマ(ケルノーハン分類による第一度及び第二度。良性か又は悪性度の低いもの。)

(二) 悪性アストロサイトーマ(ケルノーハン分類による第三度。悪性度の高いもの。)

(三) グリオブラストーマ・ムルチフォルメ(ケルノーハン分類によるアストロサイトーマ第四度。最も悪性のもの。)

2  脳腫瘍における一般的な症状としては、頭蓋内圧の亢進に伴う頭痛、嘔き気、嘔吐、眩暈、うつ血乳頭、痙攣発作、視力障害、意識障害、精神障害などがあり、そのうち特に頭痛、嘔吐、うつ血乳頭が脳腫瘍の三主徴といわれている。

3  脳腫瘍は放置するとほぼ一〇〇パーセント死に結びつくものであつて、その治療方法の主体は外科的な摘出術を施すことにある。しかし前記三分類による「グリオブラストーマ」は浸潤性の発育が強く正常組織との境界が不鮮明であるため、その全部を摘出することは不可能であるのが通常であり、そのほとんどが再発する。また「アストロサイトーマ」も、大脳半球におけるものは浸潤性であるため、正常組織との境界が不鮮明か、もしくは鮮明であつてもしばしば再発するに至る。なお、その場合、より悪性化した形で再発することも多い。

開頭摘出手術後の生存率については、昭和五三年一〇月当時の統計によると、「アストロサイトーマ」の場合は一年が70.7パーセント、二年が60.6パーセント、三年が54.7パーセント、四年が52.0パーセント、五年が48.3パーセントであり、「悪性アストロサイトーマ」の場合は一年が70.8パーセント、二年が48.6パーセント、三年が32.9九パーセント、四年が22.0パーセント、五年が16.8パーセントであり、「グリオブラストーマ」の場合は一年が41.6パーセント、二年が19.3パーセント、三年が15.4パーセント、四年が15.4パーセント、五年が12.4パーセントである。

第二診療契約の成立

判旨一1 前記二で認定した事実によれば、直子が昭和四九年七月一七日に被告山本の診療を求め、被告山本がこれに応じて同女の診療を開始したものであるから、これにより直子と被告山本との間には、同被告において直子の病的症状につきその原因を解明し、その症状に応じて当時の医療水準に照らした十分な診療行為をなすべき診療契約が成立したものというべきである。

なお、原告らは、直子に対し本件腫瘍摘出手術がなされた時点において、直子と被告山本らとの間に改めて右手術後の適正な観察、治療等を目的とした準委任契約が締結された旨主張するが、本件全証拠によつてもその間において右時点に格別の意思表示がなされた事実は認められず、また医師が患者の治療のため患者に対し適切な手術を施すとともに手術後の処置として適切な診療行為をなすべきことは、そもそも当初締結された診療契約の内容に含まれているものと解される。したがつて被告らの主張するように本件手術後の時点において改めて右契約が成立したものとみなすべき余地はない。

2 一方、直子と被告宇都宮との間については、同被告が前記一のとおり被告山本の経営する足立共済病院において非常勤の医師として勤務していたにすぎず、直子の診療については前記二2のとおり被告山本とともに本件手術に関与したのみで被告山本の履行補助者に過ぎず、直子と被告山本との間における前記契約関係の成立とは別個に、直子と被告宇都宮との間に直接の契約関係が成立したものとみなすことはできない。したがつて被告宇都宮の契約責任をいう原告らの主張は失当であり、同被告については直子に対する不法行為責任のみを検討することをもつて足りるというべきである。

二これに対し、被告らは、健康保険制度を利用して診療をうける場合には医師と患者との間において私法上の契約関係が成立しないものと主張する。

そして直子が右保険制度を利用して被告らの診療を受けたことは、原告らが明らかに争わないためこれを自白したものとみなす。

しかしながら、なるほど健康保険法に基づく保険給付は、保険者である政府及び健康保険組合が療養の現物給付をなすものではある(同法二二条、四三条)が、しかし、右療養の給付を受ける被保険者は自ら医療機関を選定することができ(同法四三条三項)、当該医療機関に対し医療費の一部を負担して支払う義務を負うものである(同法四三条―八)以上、健康保険制度を利用して医療機関の診療を受ける場合でも医療機関である医師と患者との間には私法上の契約関係が成立するものと解するのが相当である。そして、この点は当該医療機関が保険者に対し公法上の債務を負担することとは関りのないところである。よつて、この点に関する被告らの右主張は採用できない。

第三被告らの責任

一  そこで、以下被告山本の直子に対する各診療行為が右債務の不履行もしくは不法行為に該当するか、また被告宇都宮の直子に対する各診療行為が不法行為となるべきものかについて判断する。

1  被告山本の初診時から手術時までの責任(請求原因3(一))

原告らは、被告山本が直子の初診時又は少なくとも直子に対し本件手術がなされるまでの間に直子の症状が脳腫瘍によるものであることを診断すべきであつたにもかかわらず、これを怠つたため、直子はいわゆる大学病院等の大病院に転院し、そこにおいて十分な治療を受けるための機会を逸し、前記日時に死亡するに至つたものと主張する。

判旨前記第一、二及び三での認定のとおり、直子の脳腫瘍組織はいずれにしても外科的摘出を要するものであつたところ、本件手術により肉眼的にはそのほぼ全部が摘出されたものであり、一方腫瘍周辺の正常な脳組織は右手術により切除、損傷されることがなかつたこと、そのため手術後には、手術前において存在した諸症状が消失し、手術後の経過も極めて順調に推移してその一月余り後には入院前の職場に復帰することができたこと等の事実からみるならば、直子に対する被告らの本件手術は適切に施行されたものというべきであり、そのため仮に直子が原告らの主張する時期に他のいわゆる大病院に転院しえたとしても、はたして被告らによる本件手術以上の処置が施されえたかは疑問であり、また、それはいかなる点についてか、更にそれにより実際に直子を延命させることが可能であつたかについては、本件全証拠によるも全く明らかではない。

そうであれば、そもそも原告が主張するように被告山本が本件手術当日までの間直子の腫瘍の存在を診断しえなかつたこととその後の直子の死亡との間には因果関係の存在を認めることはできないものといわざるをえない。したがつて、右のとおり被告山本が本件手術時までに直子の脳腫瘍について確診するまでに至らなかつたことの当否を論ずるまでもなく、原告らの右主張は失当である。

なお、附言するに被告山本が本件手術前までの間直子の病状を脳腫瘍によるものであると診断しえなかつた点についてもみるならば、前記三のとおり、脳腫瘍の三主徴として頭痛、嘔吐、うつ血乳頭があげられ、また本件においても直子に頭痛、嘔吐が存在したことは前記二のとおりである。しかし被告山本潤一本人尋問の結果によると、直子にはうつ血乳頭が生じていなかつたことが窺われ、なお前記二のとおりの初診時における直子の訴えの内容及びその態度、直子の精神症状が七月二六、七日ころに至つてから生じてきたこと、更に〈証拠〉によると、右の頭痛、嘔吐とも脳腫瘍のみに特有の症状であるとはいえないことが認められること等から考えるならば、被告山本が直子の初診時はもとより本件手術時までの間に脳腫瘍の事実を確知しえなかつたとしても、その点において過失があるものとはにわかに断定し難いところである。

2  被告両名の手術行為における責任

判旨(一) (説明及び承諾を得る義務違反)

次に原告らは本件手術が直子及びその家族である原告らに説明し、その承諾を得ることなく施行された違法を主張する(請求原因3(二)(1))。

被告らが直子の家族である原告らに本件手術をなすに際して、事前に説明し承諾をえていないことは当事者間に争いがないが、〈証拠〉によると、被告山本は直子に対し、第一回目手術に際し、「脳の表面に血腫があるから穴を開けて除去する。」第二回目手術に際し、「血腫でなく腫瘍なので全身麻酔をかけてとる。」旨を説明し、同女の承諾を得て手術にとりかかつたことを認めることができる。そして、前記第一、二の認定事実によると本件手術、特に第二回目の手術には時間的緊急性があり、また、いずれの病院で治療を受けたとしても死を避けるため外科的摘出手術を必須とするもので、被告らによる右手術は正常な脳組織を損傷することもなく適切に行われ、その結果直子の病状は右手術後著しく回復するに至つたものであること、また、右手術に際しては頭蓋骨の一部が除去されるという結果を生じたものの、それは腫瘍を摘出するための外科的処置を施すにあたり当然に伴うべきものであり、それ自体患者が事前に手術の諾否を決するにあたつて考慮すべき程の重大な後遺障害にあたるものとは考えられないこと、さらに、直子は保健婦で医学知識は一般人の水準を上廻ること等の事情からみると、被告らとしては本件手術施行に際し、直子に対する説明、承諾の外に、直子の子である原告らへの説明、承諾をも要するものとは考えられないし、また、直子に対する説明の内容も、同女の手術に対する無用な不安感を除表する意味からも被告山本の右説明をもつて充分であり、原告らが主張するように、被告の本件手術の経験、技術、設備、治療体制まで直子に説明する義務が被告らにあるとは到底考えられない。

したがつて、被告らに本件手術についての説明およびこれに対する承諾を受ける義務違反はない。

(二) (転送義務違反)

原告らは、被告らが直子の開頭手術後同女の病因が脳腫瘍によるものであることを知つた時点において、他の脳神経外科の専門医に転医させ、そこにおいて脳腫瘍の摘出手術を行わせるべきであつた旨主張する(請求原因3(二)(2))。

しかしながら、被告山本が脳神経外科学会のいわゆる認定医でないことは当事者間に争いがないが、脳腫瘍の発見後被告らにより引き続きなされた右腫瘍摘出手術の状況は前記1のとおりである以上、同1と同様の理由により、被告らが直子を転医させなかつたことと脳腫瘍摘出手術の結果並びに直子の死亡との間にはそもそも因果関係がないものというべきである。したがつて原告らの右主張も理由がない。

(三) (被告らの手術行為自体の過失)

(1) 原告らは、本件手術の前日に直子に対し副腎皮質ホルモンを投与しなかつたことを違法と主張し(請求原因3(2)(3)(ア))、また右のとおり副腎皮質ホルモンが投与されなかつたことは当事者間に争いがない。しかしながら、本件全証拠によるも、右の事実と本件手術の結果ないしは直子の死亡との間に何らかの因果関係があるものとは認められないから、右主張はもとより失当である。

(2) また、原告らは、被告が直子の腫瘍摘出手術をなすにあたり右腫瘍をメニンジオーマと誤診したこと、その手術時間が二時間程度の短いものであつたこと(請求原因3(二)(3)(イ))、右手術前に直子の腫瘍細胞の組織片を採取してその種類の特定を図らなかつたこと(請求原因3(二)(3)(ウ))をもつていずれも被告らの過失であると主張するが、右のいずれをとつても、そのこと自体が原告ら主張のような本件手術の結果の不十分さを推認せしめるものではなく、それらの事由と直子の死亡との間に何らかの具体的な因果関係を見い出し難いことは右と同様である。したがつて原告らの右主張も失当である。

3  被告両名の術後の診断治療における責任

(一) (術後の診断治療義務違反)

原告らは、直子の腫瘍が慈恵医大病院の病理検査の結果によりアストロサイトーマ三度であつたことが判明したにもかかわらず、それを一ないし二度のものであると誤診したうえ、三年以内に再発することはないとして、本件手術後直子に対し放射線治療、脳血管撮影等再発の発見、防止のため必要な治療を行わなかつた違法を主張する(請求原因3(三)(2)(3))。

(1) そこでこの点についてみるに、前記二2の事実に〈証拠〉及び鑑定の結果を総合すると次の事実が認められる。

(ア) 本件手術により摘出した直子の腫瘍細胞組織について病理学的検査を行つた慈恵医大病理学教室の「病理検査報告書」によれば、同教室は右腫瘍をアストロサイトーマと診断し、更に右腫瘍細胞について、細胞の配列は雑然としているが、全体的にその分裂像、異形成は目立たないと報告している。そのため直子のアストロサイーマはケルノーハンの分類による二度、前記三1での分類に従えば「アストロサイトーマ」に該当するものと考えられる。したがつて、被告らが右報告書に基づき右腫瘍の悪性度をアストロサイトーマ一度ないし二度と診断し、悪性度が低いとみたことは誤りであつたとはいえない。

(イ) アストロサイトーマの手術後の再発率は前記三3のとおりであり、三分類による「アストロサイトーマ」にあつては手術後三年ないし五年にわたつて再発することなく生存する率が比較的高い。

(ウ) 脳腫瘍に対する摘出手術後の治療方法としては、再発の予防、抑制のため腫瘍の摘出部位に放射線を照射する方法がかなり広く行われている。しかし、放射線治療においては正常な脳組織を損傷するおそれがあるため、すべての脳腫瘍に対し放射線を照射すべきものとはされていず、メニンジオーマのような良性の腫瘍に対しては照射をなさないことが原則である。またグリオーマの場合「悪性アストロサイトーマ」(ケルノーハンの分類による三度)及び「グリオブラストーマ」(ケルノーハンの分類による四度)に対しては放射線治療による効果(すなわち、放射線治療を行つた場合における生存率の増加)が認められるため、腫瘍の摘出手術後右治療を行う方がよいものといえるが、「アストロサイトーマ」(ケルノーハンの分類による一度又は二度)に対しては統計上放射線治療の有効性が認められていず、右治療を行うべきか否かについての学説、治療方針は今日においても確立していない。そのため「アストロサイトーマ」の摘出手術後、放射線治療を行うべきか否かは担当する個々の医師の判断に委ねられている状態であり、脳神経外科学会の認定病院においても、良性グリオーマ(主に「アストロサイトーマ」)の摘出手術を行つた症例のうち放射線治療を行わなかつた事例は昭和四四、四五年及び四九、五〇年の統計上約四割にも上つている。

(エ) 右の放射線治療の外、昭和四九年当時における脳腫瘍の摘出手術後の処置としては、主に外部からの観察により再発の徴候を示す神経症状の発現に注意し、再発が疑われた場合には脳血管撮影を行い、その結果いかんによつては再手術を行うという方法が一般的であつた。すなわち脳血管撮影はそれ自体患者に対する一定の危険を伴うものであるため、再発の疑いの有無にかかわらず常時実施することは妥当とはいえず、また、当時は今日のようにコンピューター断層撮影装置(CTスキャン)が存在していなかつたため(右装置が普及したのは昭和五二年以降のことである。)、脳腫瘍の再発をみるにあたつては手術後の症状の経過を観察する以外はなかつたものである。

(オ) なお、「アストロサイトーマ」程度の腫瘍の再発は徐々に生じるのが通常であり、本件の場合のように急激に再発、悪化することは稀である。

以上の事実が認められ、〈証拠判断略〉。

判旨(2) 右認定の事実から判断するならば、まず被告らが慈恵医大の病理診断報告書に基づき直子の腫瘍をアストロサイトーマ一度ないし二度程度の悪性度の低いものと診断したことに誤りがあつたとはいえず、また、被告山本らが直子は本件手術後三年間は再発がないものと一応予測したことについても、右腫瘍の悪性度及び前記第一、二2(三)のとおりの腫瘍の摘出状況等から考えて、それ自体根拠を有しないものではなく、他方、前記第一、二2(六)のとおり、被告山本は右予測はともかくとして、直子の退院後も同女について事後の経過の観察を続けていた以上、現実には直子の腫瘍が本件手続後数か月のうちに再発したものではあつても、被告らの右再発時期の予測と直子の再発、死亡との間には格別の因果関係が認められるものではなく、また右予測自体に過失はないものというべきである。

更に、被告らが本件手術後直子に対し放射線治療を行わなかつたことについても、本件腫瘍の悪性度及び摘出状況等からみてその実施の有無は医師の裁量に任されるべきものと認められるから、右治療を行わなかつたことについて被告らに過失があつたものとはいえないところである。また本件手術後及び退院後の直子に対するその他の処置に関しても、前記第一、二2(六)のとおり直子の通院が続いていた間、同女の症状に何らの異常も認められず、同女からも格別の訴えもなかつたのであるから、同女に対し経過の観察のみが行われたことについて被告らに特に過失はないものというべきである。

右のとおりであるから、原告らの右主張も理由がない。

判旨(二) (転医義務違反)

原告らは、被告らが本件手術後直子の腫瘍がアストロサイトーマであることが判明し、かつ直子の手術後の状態が転医可能となつた時点において同女を脳神経外科の専門医の下に転医させるべきであつた旨主張する(請求原因3(三)(4))。

しかしながら、昭和四九年当時における脳腫瘍の摘出手術後の一般的処置は右でみたとおりであつたことから、仮に被告らが直子の足立共済病院への最後の通院日である昭和四九年一〇月一一日までの間に同女を他へ転医させたとしても、少なくとも同日までには同女の症状について格別の異常が認められなかつた以上、同女に対し脳血管撮影等が実施され、腫瘍の再発が発見されたものとは認め難く、またその時点において直ちに放射線治療が行われ直子の延命が図られたものとも断定し難い。したがつて原告らが主張する直子の転院と同女の脳腫瘍の再発及び死亡との間についても因果関係の存在を認め難く、原告らの右主張も失当である。

また、〈証拠〉によると、被告山本は外科一般を専門とするものであるほか、直子に対する本件手術時まで同被告が主体となり又は助手として関与した開頭手術数は約六〇〇例ほどあり、そのうち約五〇例程が脳腫瘍に関する手術であつたことが認められる。そうであれば、原告らが主張するように、被告山本が本件手術後直子の症状について経過を観察し、その状況いかんによつては適宜必要な措置を採るべき能力を欠いていたものとみなすべき理由はない。更に〈証拠〉によると、足立共済病院における医師数は非常勤の医師を含め一二、三人であり、看護婦数も二二、三人に上ることが認められ、これに検証の結果により認められる足立共済病院における設備状況を勘案すると、本件手術後の直子の経過を観察するにあたつては右病院自体の人的物的能力についても欠けるところはなかつたものと認められる。したがつてこの点においても原告らの右主張は失当である。

判旨(三) (告知義務違反)

原告らは、被告らが直子及び原告ら家族の者に対し直子の腫瘍がメニンジオーマであつたと述べ、当初から正確に診断名を告げなかつたことにより、直子に対し東京医科歯科大病院等において早期に適切な処置を取ることができず、直子の死を招いたものとも主張する(請求原因3(三)(5))。

なるほど、仮に直子及び原告ら家族の者が当初から被告らにより直子の腫瘍がアストロサイトーマであつたことを告げられ、また直子が東京医科歯科大病院に転院した際同女らから同病院の医師にその旨が告げられていたならば、前記第一、二2(六)のとおり直子が同病院に転院した後の一一月中旬ころから再び頭痛等が生じていたこと及び証拠保全申立人赤堀直子本人尋問の結果によると直子は自ら神経質的な性格であることを自認していること等から、直子らは再発と診断された一二月一四日より早い時期に同病院の医師に右症状を訴え、再発の有無を知るための検査等を受けたであろうことも一応推認しうる。

しかしながら、前記第三、一、3、(一)(オ)でみたとおり、直子の脳腫瘍の再発後の経緯が急激であり、同女はその後極めて短期間内のうちに死亡するに至つたことから考えるならば、直子が右のとおりより早期に検査等を受けたとしても、そのことがはたして直子の生存期間を延長しえるまでに至つたとは考えられない。

更に、〈証拠〉によると、被告山本が直子に対し同女の腫瘍がメニンジオーマであつたと述べ、本件証拠保全手続時までの間特に再発の可能性のあるアストロサイトーマである旨を告げなかつた理由は、直子が本件手術後被告山本に対し脳腫瘍の再発の恐怖を強く訴え、精神的な動揺を来たしていたことから、直子の前記のような神経質的な性格及び同女が保健婦として医学的な素養を有し脳腫瘍の再発についてもある程度の知識を有していたこと並びに直子の腫瘍がアストロサイトーマではあつても悪性度が比較的低く早期の再発の可能性が少ないものと判断されたことをも考慮して、直子の再発に対する恐怖を取り除き、退院後も充実した社会生活を送ることができるよう直子の精神的安定を得しめるためであつたこと、同様の理由により被告山本は原告ら直子の家族の者にも右の旨をあえて積極的に告げなかつたことが認められる。そして被告山本は、他方において、退院後も直子を足立共済病院に通院させ、再発の有無等をみるためその経過を観察していたところ、直子の側で右通院を打ち切り東京医科歯科大病院に転院したことは前記第一、二2(六)のとおりである。右の事実からみるならば、その後直子の腫瘍が短期間で再発したことを考慮した場合、被告山本が少なくとも原告ら家族の者に対し直子の真の病名を告げなかつたことが結果的に妥当であつたかは問題のあるところではあるが、しかし直子に与える不安等に鑑み直子及び原告ら家族の者に対し直子の病名を告げるか否かの判断はなお医師の裁量の範囲内に属するものというべきであり、これに被告山本の直子に対する退院後の措置をも考慮するならば、被告山本が直子及び原告らに対し直子の腫瘍がアストロサイトーマであつた旨を告げなかつたことに過失はなかつたものというべきである。

なお、被告宇都宮については、証拠保全申立人赤堀直子及び被告山本潤一各本人尋問の結果によると、本件手術後における直子らとの応対及び同女の治療等を実際に担当したのは被告山本であり、被告宇都宮はそれにほとんど関与していなかつたことが窺われるから、同被告が直子らに対し積極的に真の腫瘍名を告げるべき立場にはなく、したがつて同被告にもその点について注意義務違反はない。

右のとおりであるから、被告らの右主張も採用し難い。

(四) (頭蓋骨除去後放置の義務違反)

最後に原告らは、被告らが直子の頭蓋骨の一部を除去したまま退院させ、その後何らの措置も講じなかつたことの違法を主張する(請求原因3(三)(6))。

しかしながら、〈証拠〉及び鑑定の結果によると、脳腫瘍及び脳腫瘍があるために発生する脳浮腫は頭蓋内圧の昂進をもたらすが、右のとおり内圧が昂じるならば、呼吸中枢等のある脳幹部を圧迫し、遂には生命の危険をももたらすに至ること、右の事態に至ることを避けるため脳腫瘍患者の頭蓋骨の一部を除去することは脳腫瘍等の治療法(外減圧術)として確立しているものであること、直子の場合、本件手術前における脳血管撮影像は一刻の猶予も許されぬ程の危険な偏位状態を示しており、たとえ腫瘍が全部摘出できたとしても、腫瘍周辺部分の脳に高度の脳浮腫が存在することが予想され、また腫瘍の摘出手術後脳浮腫が生じるおそれも一般的に予見されるところであつたから、頭蓋骨の一部を除去したままとすることはこの脳浮腫に対処するための妥当な措置というべきであつたこと、更に頭蓋骨の一部を欠いたまま社会生活を送ることの現実の危険性はほとんどなく、現に多数の脳腫瘍患者が右のとおり頭骨の一部を際去したまま社会に復帰していることが認められ、右認定に反する証拠はない。

右のとおりであるから、被告山本が直子の頭蓋骨の一部を欠損させたままの状態で同女を退院させた措置は妥当なものであり、何ら違法なところはないものというべきである。

二以上のとおりであるから、被告両名の直子に対する診断治療には、何ら診療契約上の債務の不履行又は不法行為があつたものとはいえないといわざるをえない。〈以下、省略〉

(山口和男 持本健司 内田計一)

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